meta宣言・その1━━本物の「夢の島」で

本文

 自由通貨metaの出生地は、2003年2月2日、東京・渋谷の宮下公園集合の「イラクへの戦争NO! 渋谷デモ」のおりにわたしが考えた次のような「死霊通貨n」の幻視__妄想にある。

先贈りの倫理とコミュニズム━━死霊通貨nを提案する

無限(不定)の貨幣発行権をすべてのひとに想定することは、他者の見方を変え、わたし(自己)の側の倫理=習慣━━生活態を変える。一言でいえば、倫理的−経済的な意味において、他者が無限(不定)なものに変貌するのだ。

LETSの契約思想は、会員と非会員とを、差別する。それに対して、(コミュニズムが地球上を徘徊する痴呆老人=亡霊であるという意味で)「死霊」通貨である「n」は、会員制度を採らず、そのひろがりは不定であり、権利上無限である。nはnulloのn、nuttyのn、n次元多様体のn、n個の性のnである。

豊かな市民が、煩瑣な規約を読み・理解しそれと契約した地域通貨会員(道徳的コミュニティの一員)であるというだけの理由で特に困窮してもいないのに貨幣発行権をもつというのに、困窮=必要を切実にもつひとたち(野宿者や外国人労働者など)が生きるに値する生を享受するに足るだけの貨幣を自由に発行する権利をもたないとは、どういうことか。すでに満ち足りた「わたしたち」の内部の交換を活発に盛り立てていながら、すぐ目の前にいる困窮したマイノリティに自由な通貨発行権を無限=不定に認めないというのは、どういうことか。ここでいう無限とは、数学的ではなく倫理的な意味であり、他者の在り方をさししめしている。

オルタナティヴ通貨が、「今ここ」で実現されるコミュニズムであるというのなら、「必要に応じて受けとり、能力に応じて働く」という理念を、ミクロな次元でただちに実現しようではないか。夢想が咎められるべきものとなるのは、それがいまだ十分に夢想的でないときであり、かつそのときのみである。

 わたしがこのようなことを考えたのは、宮下公園で何人もの野宿者と遭遇し、かつて土曜日一日だけのじれんのヴォランティアをやったときの体験を思い出したからだし、また、地域通貨Qにおいて2002年の10月に故意に起こされた「恐慌」のような事態が生じたとき、『可能なるコミュニズム』の以下のくだりを想起したからでもある。

西部 交換を破棄せよ、というひとがいますね。そこで回復されるものが共同性であったり、疎外された関係が透明な関係に置き換えられるというのが一種のコミュニズムの理念だったと思うんですが、僕が言いたかったのはむしろ、それを逆のほうにひっくり返して、自由な貨幣発行に基づく自由な交換を徹底してみたらどんな理念が描けるか、ということなんです。
山城 『ゴータ綱領批判』のなかでマルクスは、共産主義の最高段階で生産手段の共有された協同組合的な社会においては生産者は生産物のたんなる交換をしない、というようなことを言っていて、これは何を言っているのか、あるいはここで言う「交換」とは何を意味しているのか、とても不思議な感じがずっとしていたんです。もちろん交換がまったくない社会などは考えられない。しかし、ふつうわれわれが考える交換とはズレたものを考えているんじゃないか、と思うんです。
柄谷 商品交換とは違う「交換」ということですね。
山城 ええ、商品交換とは違う「交換」ですね。しかしそこのところが僕のなかではいわば空白になっていた。ところが西部さんの論文を読んでLETSにおける交換は商品交換からズレた交換になっている具体例として分析されていて、多くのヒントを与えてくれた気がするんです。LETSの通貨として例に挙げられていたグリーンドルは貨幣だけれども貨幣からズレているわけですよね。

(柄谷行人 市田良彦 島田雅彦 西部忠 山城むつみ『可能なるコミュニズム』太田出版、ISBN:4-87233-494-9、p185-186)

 地域通貨Qの場合、規約作成__わたしも関与していた__のなかで、赤字上限を取引高に応じて拡大するというシステムにしたときに、即ち無限の貨幣発行権という理念を放棄したときに、「自由な貨幣発行に基づく自由な交換を徹底してみたらどんな理念が描けるか」という西部忠助教授の描いてみせた魅惑的なヴィジョンは死んだ、その時点で「コミュニズム」とは無縁になったのだと今にしてわたしは思う。それを予想し阻止し得なかった自分の頭の悪さと非力を、元・Qの規約委員として深く恥じる。わたしはこのことを深く後悔している。自由通貨metaはその後悔から生まれた。ゆえにmetaはあらゆる意味でQの裏返しである。即ち、

さらに、正直にいえば、「会員制度」すらも廃棄したいと思っている。誰が会員で誰がそうでないのか、見分けがつかないような識別不可能な空間での奇妙な(ヘンタイ的な)「交換」をこそ現出させたいのだ。

 わたしは、匿名の在野の思想家ベレンソンの箴言を無断借用し、わたしの自由通貨metaの「精神」を示す象徴━━文化財に据えた。わたしのmetaの(非-)アイデンティティを担保する根源的な言葉として。

ふと考えると すでにそれぞれの主体は
自由に自由な方法で貨幣を発行している。
しかし その多くは 他の人間にとって
それが貨幣であると認知されえず、
あるいは認知されてもそれが貨幣であると認められず
受け取られない。

すべての人間が複数種の貨幣があることを
認知するだけの感受性と寛容さを持ちえれば
世界のおおくの不幸は解決するだろう
と夢見るのは私だけであろうか

━━ベレンソン

 わたしは新たな自分の通貨を、「経済的」交換のツールというよりも、奇蹟を待ち望み準備する祭祀の一環として、歓待の倫理の象徴として、倫理的−経済的ヘンタイたち、つまりありとあらゆるアソシエーショニストたちによる変態するコミュニズムのための玩具として位置づけた。柄谷行人先生のエッセイ『Qは終わった』及びそれに引き続く諸文書以降、市民通貨に与する人たちは、金(きん)や国民通貨や商品貨幣によって根拠づけられない数字のやりとりを、「象徴的なママゴト」といって馬鹿にするようになった。わたしは敢えて、徹底して「象徴的なママゴト」をやってやろうという気持ちでいた。

 これは決して、詐欺ではあり得ない。産業連関の内包など最初から目指していないし、公言してもいない。自らが「脱戦運動」なのだとも僭称しない。自由通貨metaが積極的に目指すところのものは、もろもろの多様な領域を横断し、一般的には「経済」の枠組みには入らない何ものかの<交換>を現出させることである。 meta という名は、「〜の間に、〜を超えて」を意味するギリシャ語だが、超越性ではなく横断性を意味しており、変態metamorphosisを示す meta でもある。自由通貨metaはもろもろの領域の間に在り、それらを横断し、変態させる / 変態するための媒体、メディアなのだ。自由通貨metaは己れの限界をよく弁えている。自由通貨metaの機能とは想像力の機能、即ち媒介し切断することである。多様な諸関係を組み替え、ありえない組み合わせを現出させる、言い替えれば 奇蹟 の時を待ち望み準備する。そのためのメディアが自由通貨metaなのである。metaの数値は、赤字であれ黒字であれ、何も意味しない、単に「横断性度」の指標であるだけである。まさに「意味作用のないもの」としてあるのだ。

 フェリックス・ガタリは次のようにいっている。

 ただちに明確にしておきたいのだが、私は分裂分析と名づけたこの企てを、心理学の領域に付け加えられるべき、自閉的な専門分野であると考えたことはなかった。
 私は、分裂分析の野心は(精神分析よりも━━引用者攝津註)もっと控え目で、もっと大きいものであるべきだと考える。もっと控え目というのは、この分裂分析は、いつかは本当のかたちで存在しなければならないとしても、萌芽的にはさまざまなかたちで、 いますでに少しばかりあらゆるところに存在している からであり、正式な制度的基盤をまったく必要としないからである。もっと大きいというのは、私の見解では、分裂分析には モデル化のそのほかの体系 を読解する理論になるという使命があるからである。但しそれは一般的なモデルとしてではなく、さまざまな領域におけるモデル化の体系を解読する手段としてであり、換言すればメタモデルとしてである。モデルとメタモデルの境目は、安定した境界としては呈示されないという反論が私に向けられるかもしれない。また実際に、ある意味では、主体性は常に多かれ少なかれメタモデル化の活動(ここで提案される見地からは、 モデル化の転移 、性質の異なる問題のあいだの横断的移行)である。
 しかし、私にとってまさしく重要なのは、分析の問題群を移動させることである。そしてこの移動は、分析の問題群を、主体の既成の 言表と構造 の体系から、読解の新しい座標を考え出したり斬新な表象と命題とを《実存》させたりできる、言表行為のアジャンスマンへと導くことによってなされる。
 したがって分裂分析は、本質的には、組合、協会、学派、教育的な入門指導、《パス》などを備えた職業化された《心理学》の実践から外れたものであるだろう。分裂分析の暫定的な定義は、 与えられた問題群のコンテクストにおける、記号的・主体的な生産に対する、言表作用のアジャンスマンの影響の分析 ということになるだろう。

フェリックス・ガタリ分裂分析的地図作成法』宇波彰・吉沢順訳、紀伊国屋書店、ISBN:4-314-00814-8、p33-34)

 わたしはこのガタリの提起に全面的に賛同する。自由通貨metaは、ガタリが《心理学》の領域でやろうとしたことを、《経済》の領域でやろうとするものだ。それは、科学性(学問性)の衣裳を纏わない。経済(学)の領域に付け加えられるべき、自閉的な専門分野である━━などと考えられるものでもない。metaは、「先贈り pay it forward」というかたちで、「萌芽的にはさまざまなかたちで、 いますでに少しばかりあらゆるところに存在している 」し、「正式な制度的基盤をまったく必要としない」。metaeGroupsCCSPを借用してはいるが、それらを単に道具として使っているだけであって、何らの技術的幻想をも抱いてはいない。Winds_qが壊れたらQはお終いかもしれないが、metaは不壊である。最初から諸関係を組み替えてしまっているからだ。

 以上で最初のmeta宣言は終えるが、予測不可能な出来事に常に開かれているmetaは、幾度でも変態metamorphosisに変態metamorphosisを繰り返し、その姿を変えていくことだろう。そのたびごとにmeta宣言は書きかえられることだろう。しかし、さしあたり、始まりを告げる宣言は、これである。

2003年9月1日(月)、船橋市二和東の自宅にて、「リンダちゃん」こと攝津正記す。



Linda