松下村塾と松陰神社

松陰神社と松下村塾
松陰門下の人達
松陰神社と松下村塾
松陰神社はJR東萩駅から歩いて15分くらいの所にあります。明治23年(1890)・松蔭の没後31年たってから建立されたものです。本殿は昭和30年(1955)に建てられています。敷地内には松下村塾・松蔭幽囚の旧宅・花月楼が保存されており、吉田松陰歴史館・松蔭遺墨展示館(遺墨展示館は何故か見つけられませんでした)があります。
松蔭主宰の松下村塾
野山獄を出獄してから吉田松陰は、杉家で幽囚(敷地から出ることを禁じられていた)となり松下村塾を再開します。何故再開かと言うと、元々松下村塾というのは松蔭が子供の頃に叔父の玉木文之進が開いていた塾でこれが初代、文之進が藩から抜擢されて(この抜擢のきっかけは松陰なんだけど、それは他のページでね)から松蔭の外叔の久保五郎左衛門に代わって2代目、そして松蔭が3代目だったのです。松蔭の勉強法は書物をただ読むだけではなくて要点を書き取ることが大切であること、知識を蓄えて鵜呑みにするだけでは意味がない、自分の考えを磨いて疑問を持ち、それを解決してゆくという事を指導していたようです。飛耳帳目録という国内外のニュースを松蔭がまとめたものを綴じていたのですが、日本と世界はどうなっているのか松下村塾へ行くと判るといって遠方より来る人もいたそうです。
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松陰神社です 敷地の一番奥にあります

松下村塾 講堂側から
松蔭幽囚の旧宅 結構大きい。ここに、杉家の人々が住んでいた
松陰神社の梅
松陰門下の人達 高杉晋作へ
松蔭門下には以下の人達がいました。(松下村塾以外で学んだ人もいます。松蔭は18歳で藩校・明倫館の教授になっています)
高杉晋作 この人の事を短くまとめるのは殆ど不可能だと思います。ホームページをもう一つ作らなくては成りません。何時かやりましょう。そのときは下関・小倉行きですね。松蔭の没後大車輪の活躍で日本の運命を回転させていく天才です。ストイックな松蔭とは全くタイプの異なる人だと思います。身分を問わない奇兵隊の結成、英・仏・蘭・米4か国との講和条約の交渉(晋作がいなければ彦島は租借され返還前の香港のようになっていた)を成功させ、たった80人での功山寺の挙兵から同士を集めて行き、佐幕派である俗論党の牛耳る長州藩の藩政を奪還し倒幕へと向かわせて行くのです。吉田郷にある東行墓の碑文には
動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然、あえて正視するなし。これわが東行高杉君にあらずや
と刻まれています。下の写真は萩城下菊屋横町にある高杉晋作旧宅で撮りました
桂小五郎へ


高杉さんは梅が好きじゃったから・・と伊藤俊輔(博文)が言ったかどうかは知らないけど、庭に咲いていた梅です
桂小五郎(木戸孝允) 剣術の腕前はかなり凄かったが、命のやり取りはしていません。この点は新撰組の近藤勇と対照をなしています。薩摩と長州は犬猿の仲だったのですが討幕という大目標のために薩長同盟を締結させました。木戸孝允旧宅は萩城下の江戸屋横町にあります。かなり大きな家です。 伊藤俊輔へ
下は7〜8才の時の書

本人の落書き 「死して後已む」と左から書いてます
伊藤俊輔(伊藤博文) 伊藤俊輔の生まれた家は松下村塾の近くにありました。小さな家です。初代総理大臣になった人ですね。昔は紙幣に印刷されてました。明治42年(1909)にハルピン駅で暗殺されてしまいました。 久坂玄瑞へ

誕生の家の庭にある銅像
久坂玄瑞 松蔭から最高の評価を受けており、松蔭の妹を嫁にしています。
「防長第1流の人物たり、因って亦、天下の英才たる。」
久坂玄瑞は長州藩の藩医の家に生まれています。元治元年(1864)の禁門の変で非業の死を遂げています。